山口市の萩焼窯元 明善窯

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開窯121年山口萩焼 明善窯由来


 1890年、曽祖父 大和作太郎(松緑)が萩市より山口市に窯を移し110年にあたる2000年1月 大和潔47歳の誕生日に大内氏ゆかりの地 明善谷に明善窯を開窯いたしました。

 2005年 初瀬松緑窯より登り窯を移築

 2006年には次男 佳太も作陶に入り
祖先から受けついだ伝統を活かしつつ新たな焼き物作りに工夫を重ねております。
今後ともよろしく御指導、御引立てをお願いします。


萩焼の歴史

萩焼の始まり

 16世紀末期 豊臣秀吉による文禄慶長の役(朝鮮出兵)は別名「やきもの戦争」と言われるほど、西国の大名たちはこぞって井戸茶碗をあさり、多数の朝鮮陶工を連れて帰りました。
 萩焼の始祖 李勺光、李敬 兄弟を中心とした陶工たちは当時、秀吉の信任の非常に篤い大名で茶人でもあった毛利輝元に預けられました。
 その後、関ヶ原の戦で領地を削られた輝元は1604年に広島から萩へ移封され、これに伴って李兄弟も萩に移り萩焼が始まりました。

萩焼の土と繁栄

 初期の萩焼は高麗茶碗の写しでそれを再現するために適していたのが防府市の大道で取れる土で現在でも主要な土として使っています。
 1653年頃には、山村家と弟子たちが大津郡深川 現在の長門市湯本に窯を築き始めます。萩焼は毛利家御用窯の松本焼と御用窯件自分焼(庶民向け食器も焼く)深川焼の二つに大きく分かれます。
 1663年に初代三輪休雪が御用窯に取り立てられ松本焼の生産強化が図られます、また初代休雪は80歳の時、藩命により京で楽焼を学び白萩を完成させ、萩焼の和風化を進めました。

 江戸中期には全国的に磁器が盛んに作られるようになり萩市小畑でも民間の磁器窯が出来、藩改革の一環で中国に輸出するほど栄えていたそうですが、有田焼の量産物におされ明治から昭和にかけて衰退していきました。この減少は全国の窯業産地で起こった現象のようです
 現在小畑では磁器から陶器制作に変更した数件が萩焼を営んでいますがここ数年一部では磁器を作る作家も出てきています。

 1815年には御用窯以外で禁止されていた濃茶茶碗に似たモノが出回ったため萩焼の主要な土である大道土の禁止令も出たようですがあまり効果は無かったようです。

明治以降の萩焼

 明治に入ってからは御用窯は民営化を迫られ存続の危機にみまわれる。
 また経済の近代化、合理化、生活の欧米化が萩焼に限らず伝統工芸の衰退に拍車をかけたようです。
 そんな中で明治中期には三輪家8代三輪雪山のもとで修行をした大和作太郎(松緑)が1892年萩から山口市宮野へ移り松緑窯を開窯、山口萩焼が興ります。

下左写真、松緑作 鬼萩片口鉢、 中央 薩摩写耳付花瓶(山口焼)、 右 辰砂水差 
        

 明治後期に入り日本文化を称揚しようとする風潮が台頭し茶の湯ブームが起こります。

 これに伴い大正期には深川焼の十二代坂倉新兵衛が表千家に入門し家元伝来の名品を写し、萩焼発展にご尽力されました。この頃より「1楽、2萩、3唐津」という言葉が生まれ萩焼は一気にその知名度を上げる事となります。
 また多くの窯が衰退していった中、十代三輪休雪(休和)が白萩を進化させた「休雪白」が認められ重要無形文化財「萩焼」保持者(人間国宝)に認定され、またその弟の十一代休雪(壽雪)も同じく人間国宝となる快挙を成し遂げられました。


 戦後は好景気に乗り窯業界は大きく発展します、また焼物ブームが起こり全国で多くの新興窯が開窯しました。
 バブル景気崩壊後は量産窯を中心としたいくつかの窯元が廃業したものの、現在でも県内には多くの窯元があり作陶に励んでいます。
 


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